32インチのお気持ち表明!!!!!

言いたいことを言いたいだけ叫びまくる。

大学生活を振り返るなどしてみる

 みなさんどうも、最近めっきり更新することが少なくなった当ブログは執筆者のてぃむです。珍しくサッカー以外の話をしようかなと思いまして重い腰を上げてパソコンをカタカタ言わせている次第であります。

 

 タイトルにもある通り、今回は大学生活を振り返るんですが、なぜかというとシンプルに今年で卒業して4月から社会人になるわけなんです(当記事執筆開始時点は3月頭です)。というわけで、10年後、20年後にこのブログが存在していた時に、フラっと見に来て「いつのことだか思い出してごらんあんなことこんなことあったでしょう」と思えるような思い出のアルバムを作りたいと思います。隙あらば自分語りで悪いか?

 

 

 

 まずは1年生、受験に失敗して受かったのはとあるMARCHのセンター利用のみ。仕方なくそこに進学することになるんですが、別に大学自体にはそこまでコンプレックスはなかったかなあ、と。ただ一つ、確実に自分より頭の悪い人間が私文に振り切って早慶行ってるのが納得いきませんでしたね。国立志望は第1志望に落ちたときのリスクがデカすぎる。

 

 まあそんなこんなでクラスに分けられるんですが、第2外国語はドイツ語。全く理解できないまま単位だけ取りました。それからクラスメイトに同じ高校出身の浪人生がいたもんだから最初は結構気遣いましたね。割と早めの段階で普通にタメ口きいてましたが。

 

 大学以外では、一般の吹奏楽団体に入りました。界隈では有名な人が指導していて、かつコンクールには出たりしないゆるーい雰囲気の団体で、居心地は良かったです。高校時代の部活で少し関わりのあった他校の吹奏楽部の顧問の先生がいたり、中学時代の先輩がいたり、世の中って案外狭いなあと思ったのをよく覚えてます。

 

 バイトはすき家。でもあまりに稼げなくて数か月で辞めました。そしてそのあと始めたのが悪名高きいきなりステーキ。社員もバイトもみんな面白くていい人で、「バイト嫌だな」って感情がほぼ生まれなかった神バイトでした。そのせいで後で痛い目みるんですけどね。

 

 そして何と言ってもサークル活動。最初は吹奏楽部に入りたかったんですが、活動が活発すぎてバイトができないと言われました。学費を払わなければいけない身分なのでそれでは厳しい。続いてジャズバンドを見学しましたが、これもなんか違う。それではとフットサルやサッカーのサークルを探しましたが人気のためすべて募集を締め切っており。成すすべない俺はサークル一覧表を見ながら興味のありそうな団体を探してそのまま電凸。そして行き着いた先が大学生活のすべてを捧げることになるスキーサークルでした。これはもう運命といってもいいんじゃないかと思います。

 

 最初は「みんなで楽しく滑れればいいよね」な感覚で入ったサークルでしたが、蓋を開けてみれば金はかかるし大会にも参加するしで「サークル」と名を冠すにはちとガチすぎるとこでした。それでもエンジョイ勢はちゃんといたので自分もその派閥にいればいいやと思ってたんですが、合宿とは別に行われる雪山での長期居候で一緒になった先輩がガチ中のガチで(卒業後に技術選東京予選に出てそこそこ上位に入るくらい。技術選というのは他スポーツで言うところの日本選手権のようなもの)、その先輩にみっちり仕込まれた結果、自分の性格も相まってしっかりとストイックスキーヤーになってしまいました。もうどうやってエンジョイスキーしてたのか思い出せません。

 

 合宿中に行われる男女学年関係なく競い合う部内戦があったんですが、エンジョイ勢の先輩数人に勝ち、同期の中では3番目の成績でした。ここでそこそこの自信を持って本命の大会に挑む訳であります。

 

 が、新人戦で行われた2種目のうち、1種目で両足の板が外れるほどの大転倒をかまし、もう1種目でも板のコントロールを失って大暴走する始末。成績は酷いもので大会全体の下位20%くらいの順位でした。

 

 前述のガチ中のガチの先輩は、自分の練習時間を削ってまで俺を指導してくれたので、その申し訳なさから大泣きしました。この時、サークル内で泣き虫キャラが付きました。

 

 そんなこんなで1年生の冬が終わりました。バイトは週5くらいでしてたし、奨学金も毎月3万もらってたけど、さっき言った通り、スキーサークルはかなり金がかかり、さらに吹奏楽団の会費も払ってたので1年間の収支はマイナス。サークルの活動が一段落した3月中頃時点で母親に15万円借金をしていました。これが地獄の始まりとなったわけです。

 

 

 

 2年生。まずはこの15万円の借金を返す任務が課せられているわけでありまして、まあ15万くらいなら1か月バイトすれば全額返済できるので4月のバイト代全部を借金返済に回したんですが、この判断がマズかった。その時期といえば、2年生が中心となって活動するサークルの新歓がある頃。冬の合宿で初対面だったような間柄からスタートして、合宿を通して顔と名前が一致してきた中でやる新歓は2年生の懇親会みたいな役割も大きくて、先輩曰く、「2年生は新歓で仲良くなる」と言われるようなイベントでした。

 

 俺はあまりに金がないばかりにバイトを優先してこの新歓にあまり参加できませんでした。それに、借金返済後も秋学期の学費支払もしなければいけないことを考えると、オフシーズン中に行われるトレーニング(という名のお遊び)やその後の飲み会にも参加率は低く。そして夏休み期間に行われるイベントにも1つしか参加せず、夏の一大イベント、夏合宿も参加していません。今思うと、3,4年の夏合宿はコロナで中止になったので無理してでも行っておけばよかったなと後悔しています。まあ無理な話だったんですけどね。

 

 この夏合宿が俺の過去一の暗黒時代を生みました。時は2019年8月、俺はやはりバイト三昧の日々を送ります。当たり前のように6連勤して、当たり前のようにフルタイムでシフトに入っていました。そして、たまたま6日連続フルタイムの瞬間がありまして、もちろんその6日目となればへとへとになっているわけであります。

 

 6日目の休憩時間、ちょっとひと眠りしようとバイト先の事務所で雑魚寝して、目を閉じる前にインスタをちょろっと開いたんですね。そうするとサークルの仲間たちが集まってアクティビティをしている投稿を見つけます。それは夏合宿初日の様子でした。

 

 俺も行きたかったなあなんて思いながら心がざわつく気配を感じたのでスマホを閉じた頃に、ちょうど店長がタバコを取りに事務所ににやってきて、寝転んでる俺を見てこういいます。

 

「てぃむ君疲れてるねえ。いつもシフト入ってくれて助かってるんだけど、どっか旅行に行く予定でもあるの?」

 

 とまあこんな感じ。今思えばただの雑談で、店長としたら俺を気遣っての事なんだろうけど、この言葉で精神のダムが決壊しました。「俺は店長にお礼言われたくてバイトしてるんじゃない」「俺だって自分で稼いだ金は自分の遊びに使いたいよ」「なんで俺は必死こいてバイトしてるのにあいつらは親の金で今日も遊んでるんだ」等々、それはそれは自分勝手な八つ当たりの言葉が頭をよぎりました。店長が喫煙所に行くと、耐えられなくてボロボロ泣きました。それまでのストレスが一気に爆発したことで体調悪くなって、早上がりさせてもらいました。家に帰って熱を測ると39度の熱がありました。

 

 そこからは毎夜ベッドの上で号泣。翌朝腫らした目を親に見られて、原因を聞かれるとその度に感動系の映画のタイトルを言ってごまかしました。クレヨンしんちゃんには何度も助けられたものです。ツイッターでも愚痴アカという名の悪口アカを作るなど非常に荒れました。

 

 さらに、「月2くらいならサークル行けるかな」くらいの余裕が出てきたころ、トレーニングに顔を出すと、「てぃむはデカい声で普通のこと言う」とか、「おもんない」と散々ディスられました。これはあくまで愛のあるディスであって、言い始めたのは俺が一番恩を感じてる先輩だし、きっと参加率が低くて若干浮いている俺を気遣ってのことだと思うんだけど、なにせメンタル状況が酷いもんだから全部が胸に刺さる。その時は、確か中野駅から新宿で乗り換えて赤羽くらいまでずっと電車の中で泣いていた記憶があります。大好きだったはずのサークルの仲間が全員嫌いになりました。

 

 そして一つの決心。そもそもこんなメンタル状況になったのは、ただでさえ学費を払わなきゃいけないのにやたら金のかかるスキーなんかに手を出したせいなんだから、サークルを辞めればいい。でも、去年の大会の悔しさがあるし、卒業したガチ中のガチの先輩からは「大会の結果見るからな」と半分脅しのような言葉を頂いている。さらに、基礎スキーには団体戦というものがありまして、それが非常にカッコいいのでそれはやってみたい。ということで2年生のシーズンを終えてから辞めることにしました。

 

 そんでもってシーズンが始まるわけですが、団体戦に出るには、サークル内のセレクションを勝たなければいけないのです。男子の場合は6人1チームを2つ作るので12人。団体戦参加希望者は2年生から4年生の14人。現実的な話をすれば、その内5人の2年生から2人が補欠になるという状況でした。

 

 セレクション1日目、俺はデカめのミスをして、そこそこ絶望してました。そして2日目、朝イチのアップの時間、同じリフトに乗っていたとある先輩(セレクション参加者、最終的には14人中3位になる実力者)に、不整地の練習に誘われます。

 

 不整地は団体戦に関係ないので断りましたが、その先輩曰く、サークルとして参加する本命の大会の決戦(予選、本戦を通過する必要あり)で重要となる種目だからやるべきとのこと。しかし、既に絶望ムードの俺は「自分はどうせ決戦なんか行けないのでいいです」と言いました。そこで先輩はこういうわけです。

 

「何始まる前から諦めてんの? せっかく努力して練習してきてんのに、今から諦めてるんじゃいつまで経っても上手くなんかなれないよ。まだ2年生なのにもったいない。1日目で結果出なかったくらいで萎えて、その程度で諦めるなんてがっかりした。てぃむは近道しないでコツコツ積んできてたから応援してたのに損した」

 

 かなりしっかり目に怒られた、というか失望されました。この言葉で、俺は号泣しました。失望されたことに対してではなく、「近道しないでコツコツ積んできた」という言葉に対してです。

 

 これはどういう意味の言葉かの説明が必要だと思うのでちょっと脱線します。特に学生の基礎スキー選手において、上達したいのであればメーカーチームというものに入るのが定石になっています。チームに入ると、技術選選手がコーチについたり、上手な学生と仲良くなれたり、上等な道具を安く買えたり、さまざまな良いことがあります。特にコーチの存在は非常に大きく、チームに入る最大のメリットだと言えます。その一方で、チームでは全員同じウェアを揃える必要があったり、合宿にも参加しなければならないため尋常でないお金が必要になります。巷で「スキーの技術はお金で買える」なんて言われる要因の一つでもあります。

 

 セレクション希望者の大半もチームに入っていましたが、お金のない俺は当然の如くチームに入ることを断念していました。そこでチーム所属の他の人に勝つために色々と考えてほぼ自己流で練習してきました。それが「近道しないでコツコツ積んできた」という意味です。

 

 これが本当に響きました。そもそもチームに入らずに自己流でやってきたこともそうですが、上達するためにまずメンタル崩壊するほどバイトしてお金貯めて、それでようやくサークルに参加できているということまで見透かされた気がしました。多分そんなことないと思うんですけど。

 

 スキーを上達するためには、まずスキー場で練習する前に、筋トレをする前に、理論を勉強する前に、バイトをしなければならない。この時点で俺は遠回りを強いられている。それを踏まえた上で「積んできた」と言ってくれた気がして、本当に救われたのを覚えています。

 

 結果、セレクションは13位で補欠になりました。それはそれで本当に悔しかったけど、その先輩のお陰で、もう一回頑張ろうと思えるようになりました。

 

 それで本命の大会まで、またコツコツと積んでいくわけですが、この時期にヤツらがやってきます。新型コロナウイルス。その少し前からクルーズ船のあれこれがあったんですが、ついに国内でも感染者がチラホラ出始めたのです。

 

 大会は中止。俺が散々お世話になった2つ上の先輩方は、何もできないまま最後の大会を奪われました。

 

 シーズンが終わって、卒業式の日、1〜3年生と4年生が寄せ書きを送りあう文化があるんですが、俺への言葉には色んなことが書かれていました。

 

「今年の〇〇は思い詰めてて怖かった」

「来年こそは笑顔でシーズンを過ごして」

 

 などなど。俺の様子がおかしいことに気がついていた先輩がたくさんいました。

 

 そもそも隠キャで面白い人間ではないし、オフシーズンの参加率も低くて、迷惑ばかりかけてきた俺に対して、ここまで気にしてくれている人がいるのか。こんなに良い人ばかりのサークルを自分は辞めようとしているのか、大会で満足に結果も出せずに、団体戦にも出ずに。

 

 寄せ書きを読んでいるうちに、サークルを辞めるという考えは薄れていきました。メンタル状況が改善し始めたのもこの時期です。

 

 

 

 3年生。ご存じの通りコロナ感染者は増加の一途を辿るわけですが、思わぬラッキーが舞い降ります。

 

 バイト先のいきなりステーキが緊急事態宣言で休業すると、その休業した分の給料が補償されたのです。無賃労働ならぬ無労働賃。そしてさらにその後、大学がコロナで困窮している学生に対して奨学金を募集したのです。色んな条件があるんですが、いきなりステーキが大量閉店した時期でもあり、俺のバイトしていた店舗が休業してそのまま潰れたこともあって奨学生に採用されました。

 

 何もしないで大金が手に入った俺は、金銭的にも体力的にも余裕が生まれます。さらに言えば自粛ムードで使い道もない。つまりシーズンに向けた貯金の負担がかなり軽減したんですね。これがきっかけでメンタル状況の改善が一気に進みます。2年生の卒業式直後くらいはまだ週1,2くらいで泣いてましたが、夏頃には元気ピンピンでした。俺の1年間の暗黒時代は、ここで幕を閉じます。

 

 ただ、前述した通り、夏合宿が中止になったのは辛かった。他のイベントも悉く中止になって、正直思い出らしい思い出が本当にありません。

 

 強いて言うなら新しいバイトを始めたことでしょうか。庶民の味方、エンドレスサービス券でお馴染みの日高屋です。日高屋はいきステの100倍忙しく、時給も低く、社員も面倒臭いのばっかだったので割に合わねえと思ってましたが、なんだかんだ4年の12月まで続けることになります。

 

 それから一つ、DAZNに入ったのもこの時期。お金に余裕が出来たからこそですね。地元クラブの大宮を最初は追っかけました。当時右のWBに君臨していたイッペイシノヅカの推進力、強度、運動量、一つ一つのプレー精度に惚れました。これ以来、俺は3バック信者になっています。

 

 また、欧州各国のリーグがコロナで中断になった頃、DAZNは過去の名試合を再放送するRE-LIVEという企画を行います。そして出逢ったのが17-18シーズン、チャンピオンズリーグ準々決勝ローマ対バルセロナ2nd leg。メッシが見たくてなんとなく見始めた試合は、俺をバルセロナではなくローマに染め上げました。大逆転の内容はもちろんですが、観客の熱量に圧倒された。「永遠の都」のプライドを感じたと言うべきか、絶望的な状況でも負けることなど1ミリたりとも考えていない応援の声量。そしてそれを力に変えて結果に導く選手監督。たまらないものがありました。

 

 DAZNに入ってからというもの、完全に俺の趣味はサッカー観戦となったのです。

 

 冬になってスキーシーズンが始まると、合宿はサークルとして行うのではなく、あくまで「個人が勝手に集まっている」という名目で実施されました。不参加者も多く、大会も例年に比べればかなり小規模なもので、団体戦も実施されませんでした。

 

 個人的には非常に伸び悩んだ年で、何人もの後輩に抜かされました。大会が小規模になったことで決戦に行ける割合も高くなっていたのに、俺はびりっけつでなんとか通過する程度。というのも、3年生になると、「教えてもらう」ことより「教える」ことが多くなります。チームに入っていればコーチから教えてもらえますが、入っていない俺はスキーyoutuberを真似するしかない。しかも後輩指導が最優先なので、自分の練習時間は中々取れない。かなり限界を感じていました。

 

 

 

 そして4年生。頼んでもいないのにそいつはやってきます。その名は就活。3年生の夏頃からぼちぼち準備はしてたし、本選考の面接もいくつか受けてたけど、ついに本格的に始まります。保険業界を第一志望にしつつ、ゼミで多少勉強した鉄道業界、保険に関連して金融全般なんかも見てました。

 

 結果は惨敗。確か50社くらいからお祈られたと思います。同期は5,6月頃には内定取ってましたが、俺は9月の頭まで就活です。本当に辛かった。メンブレぶり返すところでしたね。なんだかんだで内定をもらったんですが、果たして何年続くでしょうか。合わなかったら公務員になりたいなと思ってるんですが、これを読み返している数年後の俺は今どこで働いていますか?

 

 それでなんとか内定を獲得した俺は、卒業旅行に行きます。北海道。非常に楽しかった。所謂観光名所に行ったり、美味しいものを食べたり、温泉に入ったり。基本、移動はレンタカーでゆったりって感じだったので車内での会話もまた一興。宿泊はエアビーで、一晩中飲み明かしました。酔っ払った勢いで、男全員が真夜中にハードジェルでオールバックにしたことが最高にバカだなあと今でも笑ってしまいます。

 

 それから、USJにも行きました。俺は絶叫系が苦手で乗り物酔いもしやすいので若干グロッキー気味だったけど、テーマパークの本質ってアトラクションじゃなくて移動時間の無駄話なんでしょうね、めちゃめちゃ楽しかったです。

 

 そして最後のシーズンを迎えます。今年は4年生、チーム未所属の自分は正真正銘、教えてくれる人が一切いなくなります。それを見越してスキーyoutuberをたくさん見て、シーズンインから細かい技術を磨いていきます。もちろん後輩指導は最優先ですが。

 

 そのおかげで苦手だった小回りの改善に大成功し、むしろ得意種目に変わりました。大回り系の改善点は最後まであまり良くならなかったけど、小回りは自分の中で100点中90点はあげられるくらいになったと思います。

 

 大会も行われることが決定しました。もちろん例年に比べれば小規模ではあるものの、前年度に比べれば大幅に参加者も増えました。団体戦も行われることが決定。

 

 団体戦のセレクションは9人中3位。無事Aチームに入ることができました(Bチームは人数が3人不足したためセレクションなしでかき集めたそうです)。4年目にして念願の団体戦、燃えました。

 

 団体戦には、規定演技と自由演技の2つがあって、規定は6人がボウリングのピンのように逆三角形に並んで、その陣形のまま滑り降りる競技で、自由は6人が様々な陣形を作っては崩し、作っては崩しを繰り返して滑り降りる競技。規定と自由にはそれぞれカウントといって、いつターンするか等を予め決めて、テンポに合わせて滑る必要があります。規定は全員が同じ陣形で滑る(=同じタイミングでターンする)ので全員が同じカウントを覚えますが、自由は陣形が目まぐるしく変わるので、全員がバラバラのカウントを行います。

 

 俺の担当について。規定ではボウリングのピンで言うところの1番のポジション。高校まで吹奏楽で打楽器を担当してきて、テンポキープが得意だったこと、自己流の滑りをしてきたおかげでターンの始動が独特で、後ろから見る人にとってタイミングが分かりやすかったことでそうなりました。自由では前から3番目のポジション。主に得意な小回りをベースにしたカウントでした。

 

 そんな感じで団体戦の練習をしてましたが、大会は個人戦から始まります。各サークルにはシード権が男女2つずつ与えられ、予選が免除されます。本選での滑走順が有利になる、ジャッジの潜在意識で得点が上振れしやすいなど様々なメリットがあり、例年4年生が使うことが多いんですが、俺は使わないことにしました。チームに入らず、自己流で戦ってきた人間として、予選から野良スキーヤーとして勝ち上がりたいと思ったからです。

 

 大会直前の合宿が始まり、そこそこ緊張感ある状況で練習したり教えたりしてたんですが、悲劇が起こります。大会前日の最後の練習日。不整地の練習をしていたら足元から「バキッ」という音。同時に大転倒しました。嫌な予感がして板を見ると、なんとびっくり、小回り用の板が真ん中からポッキリ折れていました。もちろん新しい板を買ったところで大会には間に合わないし、そもそもそんな金はありません。ということで予選はもう1本持っていた大回り用の板と、小回り用の板はシードを使って参加しない人のものを借りることにしました。

 

 来たる予選、種目は大回り、中回り、小回り。個人的には納得のいく滑りは出来たんですが、なぜかジャッジからの評価は低く、予選なのにボトムハーフの順位でした。ただ、棄権者が多く、大会側が予想していたよりも実際に滑った人数が少なかったため、なんと予選参加者全員が本選に進出するという謎事態。何のための1日だったんでしょうね?

 

 翌日、本選。種目は小回りリズム変化、大回り、総合滑降。自分の大回り用板と、怪我をして大会を棄権した後輩の小回り用板を借りて滑りました。約420人中300人が決戦に進出できるルールでしたが、これも棄権者続出。結局滑ったのは360人ほど。大回り系の種目が2つと苦手種目が多かったのですが、危なげなく通過できました。

 

 そして決戦。自分の大回り用板と、本選で負けてしまった同期の小回り用板を借りて滑りました。個人戦の総合成績は本選と決戦の点数の合計で決まります。俺の当初の目標は100位以内だったんですが、本選での順位を考えると相当に厳しい状況でした。が、決戦の種目には苦手にしている人が多い不整地小回りがあります。俺の得意種目でもあるのでここに一縷の望みをかけて臨みます。が、結果は100位代の後半。種目別の順位でも1つも100位以内には入れない不甲斐ない結果になりました。個人戦では順位に応じて所属サークルにポイントが与えられるんですが、あまり貢献は出来ず、今まで教えてくれた先輩方への恩返しは団体戦に持ち越すことになりました。

 

 でも、不思議なものであんまり悔しさとかは感じませんでした。「やりきった」感が凄い強くて、ヘタクソだった1年生からここまで1人でよくやったという気持ちが強かったのかもしれません。

 

 そして団体戦、大雪の影響で大会日程が変更になり、本来2日に分けて行われるはずだったのが1日にまとめて行われることになりました。

 

 午前中、規定演技。滑り終わって後ろを見ると、自分以外に5人いるはずが4人しかいない。滑ってる途中にメンバー同士が衝突して、バランスを崩して転倒したようでした。得点も振るわず。

 

 午後、自由演技。サークルに貢献するには、自由演技で挽回するしかありません。難易度で言えば自由は規定の何倍も難しいもの。最高の演技をすればまだ逆転のチャンスは残っていました。そして本番。背水の陣を敷いて挑んだ4年間の集大成は、過去最高、とまでは言えなくても3本の指に入るほど整った陣形で滑り切ることができました。

 

 団体戦の結果発表では、表彰台に乗れる団体だけが、チーム名を呼ばれます。最後まで、俺のチームの名前は呼ばれませんでした。しかし、のちに分かったことですが、順位自体は決して悪くなかったので、多くのポイントを稼ぐことができました。2,3年生を主体に挑んだBチームもポイントを取ったおかげで総合成績に望みを繋ぎます。

 

 そして男子総合成績の発表。ここで具体的な順位を書いてしまうと大学とかサークルがバレてしまうので書けないんですが、なんと表彰台に登ることが出来たのです。さらに、女子も総合成績で表彰台に登り、最高の形で大会を終えることが出来ました。

 

 もう「終わりよければ全てよし」の典型的な例というか、辛いこともたくさんあったけど、本当に楽しい4年間のサークル人生だったし、いい人に囲まれた幸せな時間でした。同期とは一生の付き合いができたらいいな、とかそう思えるくらい、充実してました。

 

 

 

 と、いい話で終わりにするつもりだったんですが、そう人生うまく行かないというもの。社会人デビューを3日後に控えた29日に大発熱をします。PCR検査を受けて結果が出たのは31日。なんと陽性。入社式前日に欠席が決まるというクソ悪印象プレイをかましてしまってスタートダッシュに失敗してしまうのでした。おしまい。