完全なる思いつきで記事を書き始めている。
直近ではサッカー関連やイタリア関連の記事ばかり書いていた当ブログ。数年前にXアカウントの運用も雑多な本垢とサッカー特化のサブ垢ということで棲み分けた結果、感覚的な浮上頻度もサブ垢に偏重して、一体サブ垢とは?状態になっているが、今回は本垢関連の話だ。
本日の#メンタルの怠慢を終えた22時過ぎ、デレステのリリースを見た。仕事終わりにXを眺めていて、デレステの思い出を語っているフォロワーを見つけて嫌な予感はしていたが、やはりという内容。
サービス終了とまでは言わないまでも、限りなくそれに近い縮小。近い内に来るだろうと思っていたものの、実際に目にするとやはり心に来るものがある。
冒頭にも書いたが、ここ最近はアイマス関連の記事をほとんど書いていない。Xのポストもアイマス関連のものはほぼしていない。そんな俺でも、である。
デレステとの出会いは高校時代だった。
俺はそれまでオタクとは縁遠い生活をしていて、深夜アニメなんてものは見たことがなかった。図書室のラノベ棚に並んだ涼宮ハルヒを「りょうぐうはるひ」と認識していたあの頃である。
我が母校は県立のくせに校舎内に合宿所があって、夏休みは各部がそこを使って夏合宿をする。俺が所属していた吹奏楽部も例に漏れずそうだった。
練習が終わって夜になると、そこにはあまりにも男子校すぎる光景が広がるわけだが、そんな時にデレステというものに興味を持った。
当時はモンスト、パズドラなどなど有名ソシャゲが定着した頃。俺はモンスト派だったのでフレンドマッチをして遊んでいたのだが、そんな中でとある動画を見て大爆笑している3人組がいた。
この3人組は部内に限らず学年内でもオタクど真ん中を行くグループで、リズムゲームとアイドルゲームが好きということで有名だった。
楽しそうな雰囲気を感じ取って動画を覗くと、マツケンサンバⅡの動画。ただし音源は聴いたことない女性グループ。話を聞くと、アイドルマスターシンデレラガールズというゲームの登場人物が歌う、きみにいっぱいという歌とのこと。
そう、「そちにいっぱい☆」である。それ以前からデレマス自体は認知していたが、興味を持つきっかけがなんだったか思い返すと、これになると思う。なんとも珍しい出会いである。
可愛い女の子がマツケンサンバで遊ばれる光景があまりにも衝撃的だった。
ただ、先述の通り俺はオタクとはかけ離れた人生を生きてきた。テレビで犯罪者がアニメのグッズを持っていたなどのイメージ、コロコロコミックで度々イジられるダサいぐるぐるメガネのチェックシャツ陰キャのイメージが先行していた。だから、俺はデレステを始めたことを誰にも言い出せなかった。もちろんグッズを買ったりすることもなく、自分のスマホの中でだけアイマスの世界を広げるしかなかった。
そんなこんなで、アイマスオタクになった俺だけれど、それからというもの本当に色々なことがあった。
デレマススレの掲示板まとめやエレファント速報に入り浸るようになり、ネットスラングというものを学んだ。気がついたら自分がエレファント速報に載る側になった。当時はSS書き内である種のステータスであったゴールデンタイムズに載ったこともあった。しばらくしたらエレファント速報に限らずSSまとめサイトというものが衰退してpixivが主戦場になった。インターネット人格が破壊されかけた時に助けてくれたのもデレステ、インディゴ・ベルのほほえみdiaryだった。色々な人との関わりの中でイメソン企画によく参加するようになった。今では調子に乗って自分自身がパーソナリティになってニコ生に出ちゃったりしている。オタクであることを言い出せなかった頃を思えば(今も両親含め身近な知り合いには隠しているが)、大分遠いところまで来てしまったようだ。
それでも、月日が経つと熱量は落ちていくものである。
ある時まではそれに多少の罪悪感があった。果たして自分はプロデューサーとして何ができているのか、何もできていないのではないか。スマホのホーム画面のデレステのアイコンは背景と同化し、ただ、「そこにあるもの」として扱うようになる。
そう、デレステとは「そこにあるもの」だった。てぃむ、あるいは32インチのバックグラウンドには常にデレステがあった。インターネット人格がこの世に生を授かって最初から、「そこにあった」。
俺の実家には少年アシベのゴマちゃんの大きなぬいぐるみがある。恐らく全長50cmくらいはある大きなぬいぐるみだ。
物心ついたときにはゴマちゃんが枕元にいた。というより、枕だった。ちゃんとした枕もあるのだが、背中の斜面具合が都合良かったのか、いつもゴマちゃんの背中に頭を乗せて寝ていた。そのせいで背中の真ん中あたりが少し凹んでいる。
子供の頃の俺はかなり怖がりで(今もだが)、暗闇が心細くてゴマちゃんの他にも枕元に大量のぬいぐるみを並べていた。ところが小学校の何年生だったか、ある時それが恥ずかしくなってぬいぐるみを並べなくなった。小さいぬいぐるみは小さい壁掛けハンモックに並べてあげた。ゴマちゃんはハンモックに乗らなかったからクローゼットの上に乗せてあげた。あれから15年から20年くらい経つが未だに彼らはハンモックとクローゼットの上で笑っている。「そこにいる」。
風邪を引くなどしてベッドの上で手持ち無沙汰な時など、ふとした時に彼らが目に入るのだ。その度にあんなことが、こんなことがあったなと思い返すことができるのだ。「そこにあるもの」には、それができる。現在進行系で夢中になっているものからは得られない、かけがえのない感情をもたらしてくれる。
結局のところ人間は思い出が放つ輝きには抗えない生き物であるし、その意味では「そこにあるもの」というのは人生の彩りにおいて必要不可欠なものなのだろう。
先程、ある時まではデレマスへの熱量が落ちたことに罪悪感があったと書いた。つまり、今は罪悪感がないということだ。
確かに熱量は落ちた。公式情報もネットの掲示板もXのタイムラインもさして追いかけていない。月1,2で投稿していたSSは年1出せれば上出来という程度になった。界隈のdiscordサーバーはほとんど見なくなったし、企画に参加することも全くと言っていいほどない。ただ、TLに流れてきたお気に入りの絵師数人の絵をいいねしたりリポストしたりする程度。
それでもデレステは「そこにある」。「そこにあるもの」には「そこにあるもの」にしか出せない輝きがある。ゴマちゃんのように、自分にとってデレステはそういうものに昇華したのだ、と思うようになった。なんとも自己中心的な思考である。
それでもいいのだ。スマホの画面からデレステのアイコンが消えず「そこにある」限り、俺はデレマスに対する帰属意識を持ったまま、インターネット人格を生きることができるのだから。
こういう時には皮肉を言いたくなるような、とてもよろしい性格をしている自分にしては珍しいことを言おうか。
サービス終了じゃなくてよかった。ただただ、運営に大いなる感謝を。願わくば、少しでも永く。