32インチのお気持ち表明!!!!!

言いたいことを言いたいだけ叫びまくる。

「ボクは岬太郎」なんだ。

 今回は本当に真面目な話をする。思いついたその日のうちに書いてその日のうちに投稿しているので、とりとめのない話になるかもしれないが、悪しからず。

 

 2024年2月15日、飲料メーカーのレッドブルJリーグクラブの買収を画策しており、その有力候補が大宮アルディージャであるというスポニチの報道が出た。

 この報道の真偽についてはまだ不確かであるが、ここでは一旦、真として話を進める。

 レッドブルとサッカーといえば、オーストリアレッドブル・ザルツブルク、ドイツのRBライプツィヒをご存じのサッカーファンも多いだろう。特にライプツィヒに関しては、レッドブルの買収当時は5部リーグ所属だったものの、現在では1部リーグに定着しており、そのシンデレラストーリーが話題になった。

 他にもアメリカ、ブラジルでもサッカーチームを買収しているレッドブルだが、それらのチームには共通点がある。①チーム名に「レッドブル」ないし「RB」が含まれること。②エンブレムがレッドブル(飲料)に描かれた牛のロゴを基調としたものであること。③ユニフォームが赤、白をメインにデザインされていること。の3点だ。

 

 さて、話を大宮アルディージャに戻そう。俺のフォロワーはご存じの通り、俺は大宮アルディージャを愛してしまう病気に罹っている。その大宮アルディージャが、レッドブルに買収されるとどうなるだろうか。

 

①「大宮アルディージャ」というチーム名にレッドブルが加わる、または差し替えられる

 簡単な話だ。レッドブル傘下のサッカーチームはすべて一貫した共通点があるなら、大宮もそれに則った形になるだろう。

 前者の「レッドブルが加わる」という点は、まあいい。Jクラブのチーム名に商品名を入れてはいけないという決まりがあることから、例えば「大宮アルディージャRB」になると仮定しよう。この時の略称は、恐らく「アルディージャ」になる。

 一方、後者。レッドブル営利企業。本業は飲料販売であり、スポーツ事業に熱心なのも、本業である飲料の販売に役に立つと思ってのことだろう。ならば、略称が「アルディージャ」になるような状況は避けるべきだ。だから、チーム名は仮に「大宮RB」と仮定しよう。こうなると話は変わる。ファン同士なら、「アルディージャ」という呼称も一定期間残るだろうが、メディアは違う。「アルディージャ」という表記はメディアから消え、新しく「大宮RB」を知った人は「大宮RB」として呼称するようになる。一つ例を挙げると、先述したアメリカのレッドブル傘下サッカーチームは、買収前は「メトロスターズ」だったのが、買収されて「ニューヨークレッドブルズ」に変わっている。メトロスターズの面影は、どこにもない。らしい。

 

②③エンブレムがレッドブルのロゴっぽくなり、ユニフォームも赤と白になる

 これも同じ話。現在のオレンジ、紺を基調としたリスと盾のエンブレムは使用されなくなり、「大宮RB」のシンボルは赤と白と牛になる。

 

 

 

 ここからが本題。サッカーファンは、なぜ特定のチームを好きになるのか。

 多くのサッカーファンが、「推し」のチームを持っている。自分が生まれ育った地元のクラブだったり、海外の強いチームだったり、日本ではほとんど知名度のないプロビンチャーレを熱心に追いかけている人もいる。

 では、我々サッカージャンキーは、サッカークラブのどこを好きになるのだろうか。

 

 選手だろうか。いや、違う。シーズンが過ぎれば選手はいなくなるし、入ってくる。大好きな選手が移籍しても、シーズンが始まってしまえば昔のことは忘れて、新しく好きな選手が推しチームの中で見つかる。

 戦術だろうか。いや、これも違う。面白いサッカーをしていれば、一定数、興味を持つ人はいるだろう。が、「推し」にまで昇華するケースは稀だ。

 強さだろうか。……論外だ。強いチームが好きならば、俺は浦和レッズを追いかけている。

 

 では、いったい何が、我々の琴線に触れているのか。それは各クラブのオリジナリティだ。どのクラブにもオリジナリティはある。いくら埼玉がなんにもないって言ったって、大宮にはオリジナリティがある。もちろん浦和だって、神戸だって、マンチェスターシティだって、それぞれのオリジナリティがある。

 

 「大宮アルディージャ」の「アルディージャ」とは、どういう意味かご存じだろうか。スペイン語で「リス」という意味だ。

 さいたま市北区にある市民の森という公園には、「りすの家」がある。たくさんのシマリスが放し飼いになっている施設だ。個人的な話になるが、子供のころは、秋になると学校の校庭や近所の公園でドングリを拾い集めては、親にねだって市民の森へ連れて行ってもらい、リスにプレゼントしていたものだ。おそらく、さいたま市内でアンケートを取れば、そこそこ多くの人に同じような記憶があるだろう。

 大宮駅東口には、「こりすのととちゃん」像がある。詳しい経緯は知らないが、物心ついたときにはそこにあった。

 旧大宮市では、リスを町のシンボルにしようとしていたようで、その名残が、これらのエピソードにつながる。そして、生まれたのが「アルディージャ」という名前なのだ。

 

 大宮アルディージャのエンブレムを見よう。盾形の向かって右側はリスが描かれている。左上にはサッカーボール。では左下の5本のストライプ模様は何だろうか。

 大宮は、かつて中山道沿いの宿場町として栄えた歴史を持つ。中山道といえば、江戸時代に徳川家康が整備した五街道の一角である。余談だが、大宮駅の駅ナカ立ち食い蕎麦屋の店名は「そば処中山道」である。高校の帰り道、駅のホームにある蕎麦屋に立ち寄る誘惑に駆られたものだ。

 そう、エンブレムの5本ストライプは五街道を指しているのだ。五街道の始点である日本橋が本拠地でもなければ、中山道の終着地でもない、一宿場町にすぎないにも関わらずエンブレムにいれてしまうあたりに、埼玉県民としての苦しみを抱えている。

 

 チームカラーはなぜオレンジなのか。例えば、愛媛FCなら非常にわかりやすい。愛媛といえばみかん。だからオレンジ。それだけではないだろうが、理由の一つではあるだろう。

 では大宮はなぜか。wikipedia以外の資料が見つからなかったが、大宮氷川神社に由来するそうだ。東京や埼玉に点在する氷川神社の総本山で、正月になると初詣で大賑わいとなる神社だ。かくいう俺も、初詣といえば氷川神社、冬は友達と氷川参道で十日市巡り。幼稚園の頃は、氷川神社が祭る神にちなんで、稲葉の白兎や、八岐大蛇の神話をよく聞かされたものだ。そんな氷川神社の朱色の建物から、オレンジを採用したのだろう。

 

 なにもない埼玉だって、掘り下げればこれくらいの話はある。そう、あるんだ。埼玉にだって、大宮アルディージャにだって、オリジナリティが。

 外野からしたら、大した話ではないだろう。リス園がなんだ、五街道がなんだ、神社がなんだ。その通りだと思う。でも、俺にとってはそうじゃない。

 リス園に通った記憶とともに、生活のすぐ近くに神様がいる環境で俺は生まれ育ち、現在もさいたま市に住んでいる。だから、大宮アルディージャのマスコットはリスであるべきだし、チームカラーはオレンジであるべきだと思っている。

 一番最初に、とりとめのない話になると書いたが、先ほどの個人的なエピソードだけは意図的に書いた。多くの人にも、郷土への愛着、もっと簡単に言えば「思い出」がある。それをサッカーという形で表現してくれていることがどんなにうれしいか。それを自分に置き換えて考えてみてほしい。

 

 

 

 さて、話は変わるが、言わずと知れたサッカー漫画『キャプテン翼』には岬太郎というキャラクターがいる。主人公の翼くんの相棒だ。ご存じの方も多いだろう。が、彼の家族について知っている方は案外少ないのではないだろうか。

 両親は岬くんが生まれて間もない頃に離婚しており、岬くんは画家の父親に育てられた。絵を描くために各地を転々とする父親についていく形で岬くんも転校を繰り返し、そして翼くんに出会うわけだが、ある時、父親がフランスに行くこととなる。転校を繰り返させてしまっている負い目のある父親は、これ以上岬くんを振り回せないと思い、離婚した母親(苗字を山岡という)に預けようとするが、岬くんは「ボクは岬太郎、山岡太郎じゃない」と拒否し、父親とともにフランスへ渡る、という素敵な話があるのだ。

 苗字、名前というのは、人間が生まれて初めて手にするオリジナリティだと思う。だからこそ、所謂キラキラネームが流行り、選択的夫婦別姓制度が議論される。そして、このエピソードからわかることは、岬くんにとって、「岬」という苗字は父親の想像以上に重要なオリジナリティだった、ということだ。

 

 話を大宮アルディージャレッドブルに戻そう。レッドブル傘下のクラブには共通点があるというのは先述したとおりだ。共通点。オリジナリティとは正反対の観点である。もちろん、レッドブル側としてのオリジナリティはある。が、クラブ側からしたら、自分たちが創り上げてきたオリジナリティ(=独自性)のレッドブル化(=統一化)としか言えない。

 地域の歴史や風土を踏まえた名前、エンブレム、チームカラーをレッドブル化する方針には一切同意できない。

 たとえ5年後に「大宮RB」がACLを優勝するようなビッグクラブになっていても、そこに大宮のオリジナリティがないならば、俺は熱狂できない。断言する。絶対に、できない。

 

 報道の真偽と、クラブの動向次第で、「ボクは岬太郎」と言って袂を分かつことになるかもしれない。そうならないことを願って、続報に注視していく。